君が向かうというなら
私はそれに従うだけなのだと
026:それはゆるやかに終わりに向かうような
潮騒のような微音が耳の底をザラリと撫でる。黒一色の外套の裾を翻して藤堂は歩く。藤堂は枢木ゲンブに言われて腐臭と腐敗が満ちた路地裏を歩き回っていた。身の程はわきまえているつもりだ。将棋などやらせても藤堂が勝つのは、相手の腹を読むからではなく圧倒的な情報とその処理によるものだ。畢竟情報の少ない相手には負けることも多い。部下は何故だか藤堂を盲信するから勝負すればするほど藤堂が勝ちやすくなる仕組みを知らない。何度もやれば相手の癖も覚えるものだ。指定の場所へ着いたのを藤堂は周りを見回して確認する。目印の尖塔や路地の数。角を何度曲がったかやその左右が違うだけで思わぬ迂路へ入り込む。外套を羽織ったのは目印になるだろうと思ったからだ。温度調整機能は損なわれていない。寒空へ放り出されれば鳥肌もたつし震えも止まらない。炎天に留め置かれれば汗もかくし脱水も起こす。脱いでしまおうかと迷うのは藤堂がこの場所にいる理由による。枢木ゲンブの用で藤堂がいるのだから相手方に藤堂が見つからなかったなどと言われてしまっては困るのだ。それでも春先の日和は動き回れば汗ばんだ。堪えきれずに藤堂は組紐を解いて外套の前を開ける。早朝や夜半には冷え込みもするこの時期では外套はそんなに特異な格好ではない。
藤堂は荒くざらつく壁に背を預けて人の流れを眺めた。同時に用事を言いつけたゲンブのことを考える。ゲンブは珍しく藤堂に甘くない男だ。たいていの政治人は藤堂の戦闘力に怯む。腹を読むのは苦手だが出来ないわけでもない。多少能力が劣るだけだ。そこをゲンブはつけつけと指摘してから言い放った。優秀ではあるが犬か。枢木の家の中と言っていい位置にある道場へ藤堂が世話になったのもその流れの一環だったのかもしれない。もともと剣戟には秀でていたのを道場をあてがわれた。通ってくる子どもたちは素直でいい子だ。悪さもするが今のところ問題は起こっていない。ゲンブはそこの施設を保持してくれる。世論は不用意で逃れようのない軍需に湧き、藤堂もそろそろ道場の師範の顔を捨てねばならない時期も近づいている。軍属としての藤堂鏡志朗が求められつつある。自分がいなくなった後の道場はゲンブや年長のものに任せるつもりだ。たたむというなら止めないし続けるというなら反対もしない。
「ゲンブ、か」
枢木ゲンブには子息がいる。スザクの名前をいただく彼の次の代が四獣の名を賜るのかは判らない。ひょっとしたらゲンブの前の代までに四獣の残りは使われているかもしれない。藤堂の家にそのような共通項はない。藤堂は軍属に所属を決めた時に己でこの家を閉めると決めた。女性を抱けぬわけではないが感情がいまいち伴わない。そんな半端に相手をされても女性の方でも困ろうと思う。藤堂は枢木ゲンブに情を感じた。妻子のある男に男が番ってどうすると思うのにゲンブがふるう一挙一動に藤堂は高揚した。ゲンブは日本人らしからぬ強引さで政治界で辣腕をふるう。ゲンブの一声で人は動いた。彼のカリスマは本物だ。年を経て額が広がり腹が出ても彼の胆力は損なわれない。むしろ熟すようにゲンブの動向は激しくなっていく。同じ男として、彼の損なわれることのない求心力には畏怖と憧憬と羨望が入り混じった。声をかけられたときは舞い上がった。ただの軍属でしかない藤堂にゲンブが声をかけた理由はわからない。気まぐれなのかもしれないし、何事かの計算があるのかもしれない。計算ずくであってもそこへ組み込まれるのだと思うだけで嬉しかった。
失われそうなこの国においてゲンブの積極性や采配は必要だった。保身に腐った政界でゲンブの言葉や身振りはいっそう輝いて見えた。この男になら国を任せられるのだと藤堂は信じた。ゲンブが日本を守れというなら粉骨砕身尽くすつもりだ。藤堂がゲンブの元へ行く時には一騒動あったものだがゲンブは物ともせずに藤堂をそばへおいた。藤堂の前身さえも問わないその度量や度胸に藤堂は感嘆した。子息の通う道場まであてがった。この男が日本を変える。責め立てられることに喘いで怯える島国ではなく。きっとこの男は日本を劇的に変える。その一翼、一因、わずかでも関われるなら命など惜しくはない。この国に命を捧げると軍属への辞令が下ったあの時に決めた。国のために死ぬ。勝てと言われれば勝つ。藤堂はそのためにいる。
「藤堂鏡志朗?」
フードを目深にかぶった男だ。男だと思ったのは胸部が身長の割に平坦だからだ。頷くと男は子供がするように藤堂の手をとって歩き出す。藤堂は黙って従った。たどり着いたのは袋小路だ。違法な増築の繰り返しとして余ってしまった場所だ。首を傾げる藤堂の顔面を男の裏拳が襲った。燃えるような熱い衝撃と痛みに膝が折れそうになる。思わずあてがう手の中で鼻血が吹き出した。軟骨を確かめる。潰されてはいなかった。男は次の攻撃に移らずに藤堂の背後へ回り込むと藤堂の背中を蹴り飛ばす。地面を倒れ伏す藤堂の背後で短いやりとりが行われる。意味がわからず起き上がる藤堂の鳶色の髪を掴まれた。短くしているから乱暴に掴まれればかなり痛い。表情を強張らせて藤堂は閉じかけた目蓋を必死に開いた。
「よくもきたものだな、藤堂」
耳朶を打つ低音。藤堂の喉がヒュウっと空気を呑んだ。
「…――閣下…!」
揶揄の意味さえこもるその呼称は幅広く蔓延している。政界において有力な位置にあるゲンブが最高位へ上り詰めるのはもはや時間の問題だ。
乱暴に投げ捨てられた藤堂が地面に伏せる。汚泥が耳や口へ入り込む。のろのろと起き上がるのをゲンブは助けもしない。外套を剥がれて藤堂の衣服はあっという間に脆弱に成り下がる。
「どう、して」
藤堂の問いは潰される。
「脚を開け、雌犬が」
この男のためならなんでもできると思った。藤堂の破瓜は白濁と入り混じって脚の間を濡らした。
「なかなかよかったぞ」
侮蔑の意味しかないその言葉に藤堂は反応できなかった。衣服は布地に成り下がり、藤堂の傷だらけの四肢は痙攣的に震えた。
「お前は生粋の雌だな。連絡を待て」
それは一度きりでは終わらない呪いだった。もっともゲンブが所有する道場へ顔を出すだけで藤堂は捕まるだろう。藤堂の体は公私ともにゲンブの管理下にあった。半ば土の中へ突っ込んでいる藤堂はもたもたと体を起こした。泥にまみれた髪や体をかえりみる余裕はない。着衣は無造作に散らばりなんの法則性もない。邪魔だから退けただけという以外に理由もない。
「処女の味は久しぶりだ。うまかったぞ」
藤堂の体は慄然として震えた。俯けた顔を上げられない。見開いた眼から涙の一滴も落ちない。黙って震える藤堂にゲンブは興味をなくしたようにあっさり見捨てた。車をつけろ、帰る。立ち上がって見送るべきだと思いながら乱暴に抱かれた体の反応は鈍い。ゲンブは藤堂の在りようなど気にせず、汲まず、好き勝手に抱いた。藤堂のありとあらゆるものが砕かれた。
「また、呼ぶ」
つきつけられる事実に藤堂は泣くことさえ出来なかった。衣服をかき集めることさえ億劫で。このまま土へ還ってしまえばいいと、腐敗すればいいと投げやりに思った。間を置いて黒塗りが路地の先へ停まり、ゲンブの体はそこへ吸い込まれていく。紅いテールランプの残影を瞬かせて車は走り去る。
それでも。まだあの男が好きであることが藤堂を打ちのめす。あの男に膝を屈すること。脚を開くこと。抱かれること。捨てられること。それでも藤堂はゲンブがそうしろというならそうするだろう。
「……か、っか…!」
こみ上げる熱いものが涙になって溢れた。汚泥を掘るように爪を立て溝を掘る。ぼたぼた落ちるのが涙なのか洟なのかも判らない。顔を歪めて泣いて慰めなどない。救いなどなおない。どろどろに崩れた泥に顔を伏せて藤堂は泣いた。裏切りと、それでもゲンブから離れなれない自分を識っている。軍属として指揮官が望む結果を出すことに躊躇はない。命じられれば藤堂は従う。
髪の隙間や耳裏までを泥が撫でた。藤堂の指先は泥に埋まり、爪は細い溝を何本も掘る。微温いような泥濘の中で藤堂は笑った。
それでも、私は、あなたを
「あ、あぁあ、あぁあぁああ」
慟哭が響く。ぽたぽたと肩を濡らすばかりだった雨が降りしきった。ざぁあぁと絶え間なく降り注ぐ雨に濡れて藤堂は泣いた。泥の上に伏せる裸身は気高く美しく、藤堂自身はそんなことなど思いもよらない。
いつから狂っていたのか
いつから私は、あなたを
あなたがわたしのすべてであった
こもった音を飲み込んで藤堂の灰蒼は潤んで瞬いた。
わたしはいまもあなたがすきだ
震えて引き結ぶ口元で滂沱に流れこむ雨水を藤堂は呑んだ。悲鳴も呑んだ。
《了》